柱谷 (東スポWeb) 【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(28)】いまやサッカー日本代表がW杯に出場するのは、当たり前の光景になっている。2018年ロシ … 森保一監督就任後の日本代表が挑む最初のメジャータイトル、2019年1月5日開幕のアジアカップは、UAE各地で行われる。要するに、中東で開かれる大会だ。, 日本サッカーにとって、中東の地は必ずしもゲンのいい場所ではない。日本代表は過去、何度となく彼の地で苦杯をなめさせられてきた。, 1993年10月、カタール・ドーハで行なわれた、ワールドカップ・アメリカ大会のアジア最終予選。現在とは予選方式が異なり、中立地での集中開催で行なわれていた当時の最終予選は、出場全6カ国が総当たりで対戦し、上位2カ国にアメリカ行きのチケットが与えられた。, 日本は4試合を終えて、2勝1敗1分け。最後のイラク戦に勝てば、自力で初のワールドカップ出場を決めることができる状況にあった。, ところが、日本は2-1でリードしながら、後半ロスタイムに同点ゴールを許す悲劇的な結末で、ワールドカップ初出場を逃したのである。森保監督はそのときの日本代表メンバーのひとりだ。, 当時はまだ、今ほど中東が身近な存在ではなかった時代である。日本ばかりか、欧米ともまったく文化や習慣が異なるイスラム圏の中東には、今以上に未知のことも多く、ある種の不気味さがあったのは事実だ。そんな背景もあり、中東での試合では何が起こるか分からない。そんなネガティブイメージが定着していったのだろう。, 嫌な思い出は、ドーハの悲劇だけではない。過去のワールドカップ予選やオリンピック予選を振り返っても、日本は中東で星を落とすことが多い。結果的に、本大会出場を逃す最悪の事態には至っていないものの、なるほど日本サッカーに中東コンプレックスが生まれても不思議はない状況ではある。, 本ホームページに記載の文章・画像・写真などを無断で複製することは法律で禁じられています。全ての著作権は株式会社集英社に帰属します。. ドーハの悲劇(ドーハのひげき, Agony of Doha[1])は、1993年10月28日[注 1] にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。, 1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、第4戦終了時点で日本はグループ1位となり本戦出場が有力視されていた。, 最終第5戦、試合終了間際まで日本優勢で進み2-1でリードしていたが、ロスタイムにイラク代表のゴールが入り同点で終了する。この結果、勝点7のサウジアラビアが1位で、勝点6と日本と同数ではあったが得失点差により韓国が2位出場となり、FIFAワールドカップ初出場が期待されていた日本代表が一転して予選敗退する結末となった。, アジア地区最終予選は、ドーハでの集中開催方式にて行われた。1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。日本は1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて最終予選へ進出した。一方のイラクは1次予選A組で6勝1分1敗で勝点13、中国を勝点1差で抑えて進出した。, 日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分けたが、第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位に転落した。スタメンの入れ替えを敢行した第3戦の北朝鮮戦を3-0で快勝。続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立った。守備は6チーム中最少失点(4試合中3試合を完封)、スーパーサブからスタメンに起用された中山雅史が攻撃を活性化するなど、攻守のバランスは上向いていた。, イラクは初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負け。イラクサッカー協会が監督を更迭し、1980年代に2度五輪チームを率いたエマヌエル・"ババ"・ダウド (Ammo Baba) が監督に就任した。第2戦韓国戦は86分に追いつき2-2で引き分け、第3戦イラン戦は2-1で初勝利を収め、第4戦サウジアラビア戦は1-1で引き分けた。6チーム中最多の7得点を挙げながら、失点も7失点という出入りの激しいサッカーをしていた。, 北朝鮮以外の5か国が勝点の差「1」の中でひしめき、5か国のいずれにも本大会出場のチャンスが残されていた。同日・同時刻キックオフとなる最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは, 【日 本】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 【イラク】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 【サウジアラビア】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 【イラン】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある ↓次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場, 第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。, 第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送った。, 両国の過去の対戦成績は日本の1引き分け3敗で、ロサンゼルス五輪アジア・オセアニア地区最終予選(1984年4月21日 日本 1-2 イラク)以来9年半ぶりの対戦となる。第4戦からイラクは中3日、日本は中2日を挟んで最終戦に臨む。, 日本は、北朝鮮戦・韓国戦で成功した4-3-3システムを継続。前線には三浦知良・中山雅史・長谷川健太が変則3トップ気味に並ぶ。中盤のボランチのポジションには、韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一が戻った。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。, 日本では、テレビ東京およびNHK BS1がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。, テレビ東京の放送では、現地実況を久保田光彦アナウンサー、解説を前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時には久保田が「決まった!」と叫んだあと久保田、前田ともに一言も発せず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという[3]。沈黙が30秒近く続いたあと、ようやく久保田が「仕方ないですね」と発した[4]。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。柱谷は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」と弟の哲二ら選手にメッセージを送った[4]。番組の視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。, NHK BS1の放送では実況を山本浩アナウンサー、解説を田中孝司が務めた。スタジオでは友田幸岐が司会を務め、解説は岡田武史と田嶋幸三が担当した。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。, ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー[5]、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。, 日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。, サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。, 1994年、日本が出場を逃したワールドカップ・アメリカ大会でアジア勢は奮闘した。サウジアラビアはエースオワイランを中心に躍進。アジア勢として7大会振りのベスト16入りを果たす。土壇場で出場を決めた韓国も勝利を収めることはできなかったが、スペイン戦では試合終了5分前から2点差を追いつき、ドイツ戦でも3点ビハインドから1点差に追い上げ、前回大会全敗に終わったアジア勢の復活を印象付けた。, ドーハの悲劇から1年後、アジア予選突破・世界大会出場というフル代表が果たせなかった目標は、アンダー世代によってドーハの地で達成された。1994年10月、カタールで行われたU-16アジアユース選手権に出場したU-16日本代表は、アル・アリ競技場で行われた決勝戦を山崎光太郎の延長ゴールデンゴールで勝利し、初のアジア制覇と翌年のU-17世界選手権エクアドル大会出場を決めた。中心メンバーの小野伸二・高原直泰・稲本潤一らは1999年のワールドユースで準優勝し、「黄金世代」と呼ばれるようになる[48]。, 1996年、U-23日本代表がアトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり[49]、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ[50]、28年ぶりの五輪出場が成し遂げられた[51]。, 1998年のワールドカップ・フランス大会以降、アジア最終予選はホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになった。日本は1997年のアジア最終予選でイランとの3位決定プレーオフに勝利してワールドカップ初出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。1994年大会出場を逃したいわゆる「ドーハ組」の中で、1998年大会の本戦メンバーに選ばれたのは中山雅史と井原正巳の2名のみだった。以後、日本は自国開催枠出場の2002年日韓大会を含め、2018年ロシア大会まで6大会連続でワールドカップ出場を果たしている。, 2011年、アジアカップ・カタール大会で日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い、史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた[52]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。, 2013年、2014年ワールドカップ・ブラジル大会アジア最終予選においては、『日本[注 7] がドーハの地でイラク[注 8] との最終戦[注 9] に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。, 2015年、アジアカップ・オーストラリア大会のグループD第2戦では、ドーハの悲劇にDFとして出場したラディ・シュナイシェルが指揮を執るイラクとブリズベンで対戦し、1-0で日本が勝利した。, 2016年、リオデジャネイロ五輪アジア最終予選を兼ね、ドーハでアジアU-23選手権が行われた。準決勝ではU-23日本代表がU-23イラク代表と対戦し、後半48分に決勝点を奪ってリオデジャネイロ五輪本大会出場を決めた。この世代の選手は「ドーハの悲劇」が起きた1993年かそれ以降に生まれた選手たちだった。手倉森誠監督は勝利後のインタビューで「日本サッカー界のことを思えば、ロスタイムで取るあたり歴史を逆転させた。いい勝ち方だなと思います」と述べた[53]。, ベルリンの奇跡 - ドーハの悲劇 - マイアミの奇跡 - ジョホールバルの歓喜 - 日韓戦 - チーム別対戦成績, カタール時間16時15分開始の日本-イラク戦でロスタイムにイラクの同点ゴールが決まった時刻は18時過ぎであり、6時間の時差の関係で、日本では日付が変わり10月29日の0時過ぎとなっていた。, 当時のルールではFIFA公式戦の交代選手は2人まで。なお1994年ワールドカップ本大会からフィールドプレーヤー2人+ゴールキーパー1人の最大3人に改正された, サッカー不人気の理由に「引き分けが多い」というイメージがあったため、発足当時のJリーグは90分間で同点の場合は, 後半4分、フリーキックからイラクのヘディングシュートが決まったが、オフサイド判定で取り消され、怒ったイラクの観客が瓶を投げ入れた。, 松本秀夫『プロ野球 実況できなかったスゴイ話』ぜんにち出版、2009年、245-246頁。, 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、48頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、61頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、72頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、57頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、47頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、25頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、43頁。, 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、31頁。, 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、26頁。, 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』<学研新書070>、学習研究社、2010年、81頁。, http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2013080500014.html, <狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」, 賢者は敗北に学ぶが、愚者は敗北に浸る……「ドーハの悲劇」生き証人・清雲栄純が語るオフトJAPAN, <再び世界の頂点を目指して> “未来のサッカー日本代表”を強くするために、今やるべきことを考える。, 小野、高原、稲本ら後の黄金世代が出場、初のアジア王者に/1994年のAFC U-16選手権, “マイアミの奇跡”よりも熱かった! “ドーハの悲劇”の教訓が活かされたアトランタ五輪予選・サウジアラビア代表戦2/2, 【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」, http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/01/26/kiji/K20160126011928910.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ドーハの悲劇&oldid=80196922, 【韓国】日本、イラク、サウジアラビア、イランの4か国のうち3か国を成績で上回る必要がある, 当時の勝点は勝利2、引き分け1、敗戦0。勝点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。, 最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、, 川淵は日本への帰国便に乗る前、「明日から我々に厳しい批判の声が飛んでくるけれど、それを受け止めて、前へと進んでいこう」と声をかけた, 韓国の選手は本戦出場決定に大喜びし、試合後にホテルで祝勝パーティーを行った。しかし、部屋に戻りテレビで日本の選手・サポーターが泣く映像を見ると、誰もが声を失ったという, この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国が本大会出場を決めたため、韓国国内では「ドーハの奇跡(, イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる, イラン戦の敗戦で崖っぷちに立たされた日本は、オフト監督の「3WIN(残り3試合を全勝する)」というメッセージで気持ちを切り替え、活気を取り戻した, 後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くへ侵入したが、途中出場の武田はボールをキープせず、味方が詰め切れていないゴール前へセンタリングを上げた, 最終予選の対戦国ではサウジアラビアと韓国が難敵になると予想されていたが、オフト監督はイラクを「危険なチーム」として一番マークしていた, 柱谷哲二はのちに最後のコーナーキックの守備について、「マークについていなかった。ゴール前に密集していればクリアできるものだと思った」と語った, イラク代表は最終予選を通じて全チーム中1位の得点数を叩き出していた。また日本戦までの星どりは1勝2分け1敗だったが、ワールドカップ本戦出場国の韓国・サウジアラビアを苦しめた上での2分け、唯一の黒星となった北朝鮮戦も後半途中退場者を出すまで2-0でリードしており、日本戦においても主力を多く欠く中での引き分けであった。ラモスも最終予選を振り返った時に強かったチームはとインタビューで聞かれると「間違いなく韓国とイラク。イラクは特にサッカーをよく知っているなと思った」と述懐している。, アジア最終予選に関しては、イラク戦の結果のみがクローズアップされがちだが、それまでの経過に敗退の原因があるという意見もある。, 中山は快勝した北朝鮮戦・韓国戦でも決定的なチャンスが2・3本あり、そこで決めていれば得失点差で大きなアドバンテージになっていたはず、と語っている, 柱谷は「W杯に行けなかったのはイラク戦の引き分けよりもイラン戦の負けが要因だったと思う」「固定メンバーで熟成されていた半面、イランに分析され対応されたときに変化を出せなかった」と語っている, 戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』、ソニーマガジンズ、2007年, 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』、学習研究社<学研新書070>、2010年, 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』、ベースボールマガジン社<分冊百貨シリーズ12 永久保存版 全7巻シリーズ③>、2015年, 「Sports Graphic Number No.839 ドーハの悲劇 20年目の真実」2013年10月31日号、文藝春秋社.

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