ラッシャー木村 谷津のカットで間一髪逃れる鶴田。木戸の猛攻が続き、勝負をかけた空中胴締め落としだ。その瞬間鶴田は木戸の首をロープに叩きつけ、逆に胴締め落としで叩き潰す。鶴田の完勝であった。, 初めての黒船登場は鶴田の横綱相撲でありながら、素晴らしい試合だった。そして僕にジャンボ鶴田の実力を認めさせた試合だった。, ジャンボ鶴田が生涯、新日本プロレスで試合を行ったのはこの1試合だけだった。その後鶴田は病に侵され若くしてこの世を去ってしまう。本当にスケールの大きいレスラーだった。まさしくジャンボだった。, 現在のプロレス界はベルリンの壁も崩壊し、他団体時代に突入している。そのため、「こんな対戦が成り立つなんて!」という新鮮なカードもない。今後2度とあのような試合は見られないだろう。. ■「ジャン... 【YouTube番組】#20 番組初のリアルツーショット!超一流ホテルに泊まってみた, 「少年隊」✖️「筒美京平」〜80年代アイドル⑫ 1985-1987 初期シングル筒美Worksは傑作揃い, 「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」. ・第2戦 1976年3月28日 蔵前国技館 妻はたまに職場の同僚と仕事終わりに食事や飲み会などに行ってます。私は行くことや帰りが多少遅くなることは気にしておりません。 昭和のプロレスには、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の二つの流れがあった。どちらとも交わることのない流れだ。, 二人の確執、関係は本人たちにしかわからない。猪木の新日本、馬場の全日本は独自のプロレスを確立していた。攻撃的な新日本、鎖国路線の全日本、その中で、全日本的なプロレスを象徴するレスラーがジャンボ鶴田だ。, 猪木の新日本プロレスの対極に位置するのが、ジャンボ鶴田のレスリングだ。新日本が100メートル全力疾走だとするなら、ジャンボ鶴田はマイペースな散歩のようであった。, 全日本と新日本の間にあった、まるでベルリンの壁のような強固な隔たりの隙間から、ジャンボ鶴田が一度だけ新日本プロレスに登場した。, 1990年当時、プロレスマニア歴10年の僕はアントニオ猪木が率いる新日本プロレスに陶酔していた。, その分全日本プロレスを1ランク下に見ていた。外国人レスラーは充実していたが、日本人レスラーは全員、腹がたるんでいた。練習不足のイメージで全日本プロレスを見ていた。, その全日本の象徴、ジャンボ鶴田が新日本プロレスに登場した。新日本プロレスでは社長が猪木から坂口征二に変わっていた。猪木の政界進出等の理由からだ。, 馬場は坂口とは良い関係を保つことが出来、ちょっとだけ、ベルリンの壁に隙間が出来た。そして鶴田が登場した。, 新日本プロレスからは中堅の木村健吾、U系の流れを持つ木戸修。ある意味新日本らしい選手であった。, 一方、全日本プロレスからは元新日の谷津義昭とジャンボ鶴田。こうして見ると鶴田以外は新鮮味にかける組み合わせだ。, しかし、黒船の鶴田が登場するだけで会場はブーイングどころか鶴田コールで迎えられ大興奮。全員、黒のショートタイツ。まさしく日本人の純プロレスだ。, 開始と同時に新日本コンビはターゲットを鶴田にしぼり二人がかりで攻撃だ。木村の稲妻レッグラリアット、パンチ攻撃、そして木戸とタッチ。木戸も小さな体ながら鶴田に挑むがニーパッドで吹っ飛ばされる。鶴田の「オー」が出た。, とうとう新日本プロレスで「オー」が出た。場内は大歓声。そして谷津が登場し、木戸対谷津、木村対谷津。新日本プロレスらしい攻防で安心して見ていられる。, 違和感もなく上手いレスリングが続く。そして鶴田の2度目の登場。鶴田対木戸で一気に会場が盛り上がる。異質な二人の対決だ。鶴田のハイキックが出た。ジャイアント馬場の16文キックを彷彿させる。, 木戸も負けていない。手四つの体勢から伝家の宝刀、脇固めに決める。鶴田が脇固めを食らった。U対全日の対決に異常な興奮の東京ドームだ。木戸の眼光の鋭さ、鶴田の苦悶の表情でロープブレイク。鶴田は得意のキチンシンクで逆襲し谷津と交代。, 谷津はフロントスープレックスやサソリ固め、木戸はサソリ固めを返し、アキレス腱固め、素晴らしい攻防が続く。, 一方木村も格闘技スタイルで谷津を攻める、特にパンチの切れがいい。そして3度目の鶴田の登場で、伝家の宝刀バックドロップが木村に火を噴いた。, が、鶴田のバックドロップは普段全日で使われている、へそで投げるバックドロップではなく、受け身の取りやすいように足を持ち上げたバックドロップであった。, 鶴田のバックドロップは危険なため、受け身のとりやすい投げ方に切り替えていた。さすがは鶴田、余裕の試合展開に僕は敬服してしまった。役者が違う、まさしくジャンボだ。. ただその行動と私に対して報告してくれた内容に違いがあ... パズドラについて質問です。炭治郎2体目と、無惨2体目と、煉獄1体目どれがいいですかね?やっぱり持ってるキャラによりますか?, パズドラで、炭治郎テンプレを作りたいんですけど、何をどう組めばいいのか分からないので、誰か組んでいただきです。よろしくお願いします。, パズドラ初心者です。 というのは、本音だったと思います。, 私がオカダ カズチカがスゴイ、と言うのはコレなんですね。190超えでドロップキックがあれだけ跳べる、というだけで、レヴェルが違うのです。, いまのオカダvs全盛期の猪木、長州はスタイルが違い過ぎて観たくもありませんが、オカダカズチカvs昔のジャンボ鶴田、ってのは観てみたいですね(矛盾しますがオカダvs藤波戦も観たい)。, オーソドックスなプロレスの範疇でいえば、ジャンボ鶴田は間違いなく「名レスラー」です。しかし、時代が悪すぎました。, 日本人はアントニオ猪木という稀代の天才のプロレスを観てしまっていたからです。アントニオ猪木はプロレスというジャンルを超えて、「アントニオ猪木のプロレス」というものを創造しました。, それに比べるとオーソドックスなジャンボ鶴田のプロレスは、物足りなさしか感じません。, これは鶴田が悪いというより、猪木が異常だったのですが、全日プロのNo.2であれば、もう少しやりようがあっただろう、と思ってしまうのも事実です。, 「本気を出せば鶴田が最強」と主張する人がいますが、逆に言えば鶴田は、最後までプロレスに本気を出さなかったですし、出す気もありませんでした。, 一時期、鶴田を新日プロに引き抜こう、という動きがありました。さすがにそれはやり過ぎだ、と周囲に止められたと言います。, 別に移籍はしなくても、若き日の鶴田は猪木と一度でもリングで合間見えていたら、何かが変わっていたと思います。, ただ、逆説的ですがジャンボ鶴田はあくまでも全日プロのジャンボ鶴田であり続けました。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, 大阪万博1970(昭和45)年生まれの男のロマン。主に70~90年代カルチャーについて記憶と共に無差別に書きなぐります。, 「1983年の中森明菜」~80年代アイドル④ 1982-1985 初期シングルの軌跡. アブドーラ ザ ブッチャー この時点で三沢がマッチメーク権... 40代で300万円の貯金ってすごいんですか?先日、同棲してる彼氏が『親が300万円の貯金があるからスポーツカー(WRX)買うらしい』と言ってきました。それも自慢げに。 「藤波をライバルと感じたことはない。前田と戦いたかった」 1990年4月13日、WWF(現WWE)と全日本プロレス、新日本プロレスのメジャー3団体が共催した「日米レ... 今回は、リクエストにお応えして昭和プロレスラーの唄う「プロレスラーソング」特集です。 クリス テイラー(1972年ミュンヘン五輪レスリング銅メダリスト) 決まったと思われた瞬間、大逆転の脇固め! 39年間で実に7つもの団体を渡り歩いた、激動のレスラー人生。 坂口征二とジャンボ鶴田とでは、どちらが強いと思われますか?? ジャンボ鶴田でしょう。無尽蔵のスタミナがあるので。天龍戦で見せた、怒ったら手が付けられないという怖さもある。坂口さんは、プロレスは器用ではなかったですね。 ・第3戦 1976年6月11日 蔵前国技館 WWEがワールドワイドの「オンリーワン プロレス メジャー」になった現在では信じられませんが、70〜80年代の日本マットは、世界中のレスラーが憧れる「黄金マーケット」でした。今回はそんな80年代のガイジンレスラーたちのギャランティ事情につい... 89年の「格闘衛星★闘強導夢」、 そして残りの3選手も素晴らしい。持ち味を十二分に発揮し、多彩な技の展開だ。一進一退の攻防の末にクライマックスが来た。やはり鶴田と木戸の攻防だ。勝負をかける、ジャンボラリアット! 他の回答者の皆様も、有難う御座います。, 木村健吾は、なぜ、藤波や長州のようになれなかったのでしょうか?藤波や長州よりも身長は高いし、骨格や体つきは猪木に1番似ていたと思うし、なぜ新日本は健悟を藤波や長州と同じくらいの格やポジションにしなかったのでしょうか?, 猪木はよく天龍にピンフォールを許しましたね?馬場に屈したことにならないか?そうした懸念はなかったのですか?既に全盛期を過ぎていたことも要因ですか?, 昨日、アウトデラックスに出てた「HARUKAZE」というプロレスラーなんですが、誰かに似てるってずっと気になっています。覆面から見える顔と全体の雰囲気が誰かに似てるんですが、どなたか心当たりありませんか?, 何故アンドレのようにギャラが高いレスラーが新日のマットに頻繁にフル参戦できたのでしょうか?86年はビッグファイターシリーズとIWGPと連続出場でした。, 藤波の身長が公称176~185になってますがいくらなんでも176はないでしょう。日プロに入門当時の身長でしょうか?, 歴代女子レスラーで、一般の方に最も知名度が高かった人はズバリ誰ですか?キューティー鈴木でしょうか?. 腕をぐいぐい絞める。この日の東京ドームでの最大の盛り上がりと言っても良い。鶴田は必死にロープブレイクしたが、再度木戸も脇固めで食らいつく。, 興奮の坩堝の6万人! 90年の「スーパーファイトin闘強導夢」 私の中で最初の「ジャンボ鶴田の記憶」は、1977年、田園コロシアムでのvsミル マスカラス戦(同年のプロレス大賞ベストバウト)あたりです。, まだ赤と青の星がついたパンツを履いていて、「若大将」と呼ばれていた時代。ギターを弾いてリサイタルしたりはまだいいとしても、若いだけで”ハンサム”扱いする”プロレス村の理屈”には、子供心に違和感がありました(確かに当時の全日プロは人相悪過ぎだらけなのですが)。, 残念ながら、鶴田のデビュー戦や10番勝負あたりはリアルタイムでの記憶はありません。後にその頃の試合を観て、デビュー戦でテリーに決めたジャーマン、馬場の顔まで飛び上がるドロップキック、反動なしで馬場の巨体をサイドスープレックスで投げきる背筋力など、その素材の良さと天才ぶりに衝撃を受けました。, それと同時に、「こんなにすごかったのに、なんであんなにくすぶってたの?」という疑問が強くありました。, ジャンボ鶴田、本名 鶴田友美は中央大学レスリング部時代にレスリング日本代表に選ばれ、1972年のミュンヘンオリンピック グレコローマン スタイル100kg以上級に出場(結果は2回戦失格)します。, そして1972年10月31日、全日本プロレスに入団。その際「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「全日本プロレスに就職します」と報道され、「新時代のサラリーマンレスラー」と言われました。, その後、テキサス州アマリロのザ ファンクスのもとへ修行に行き、スタン ハンセンやボブ バックランドらと共にトレーニング。, 1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル タピアを相手にプロデビュー、2ヶ月後の5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキにて、なんとドリー ファンクJr.のNWA世界ヘビー級王座に初挑戦。デビュー2ヶ月での世界王座挑戦は異例中の異例であり、それだけ鶴田の適応能力、ポテンシャルが並外れていた証明です。, そして凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー、フォール勝ちを納めます。さらに3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ ファンクスとのインターナショナル タッグ王座戦において、師匠ジャイアント馬場のパートナーに選ばれます。, この抜擢について試合前にファン、マスコミから「デビュー1年で大した実戦経験もなしにいきなり馬場と組んでメイン出場は10年早い、プロをナメるな」と猛バッシングとなりましたが、60分3本勝負の1本目でテリー ファンクからジャーマン スープレックス ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、周囲の不安をよそに異例のスピードで全日プロNo.2の地位に着きました。, その後、「全日プロ次期エース ジャンボ鶴田をさらに大きく育てるため」という名目で、世界の強豪選手10人を相手に行われたのが「試練の十番勝負」です(すべて60分3本勝負)。, ・第1戦 1976年3月10日 両国日大講堂 ハーリー レイス 猪木は自分を裏切ったレスラーや反旗を翻したレスラー、出て行ったレスラーがいても、時間が経てば、過去のいきさつは水に流して受け入れるような所がありましたよね。長州、藤波、前田、大木、上田、シン、等。 詳しく説明してくださった方を、ベストアンサーに選びました。 ジャンボ鶴田と坂口征二はサイズが似ていた。 実際には坂口征二の方が少し高いみたいだが。 でも両者の対決も一度くらいは見たかったな。 身体能力ならジャンボ鶴田が上回るだろうが。 でも真の強ささら坂口征二って事になりそう。 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, 回答有難う御座いました。 鬼滅の刃コラボの炭治郎を変身させたいんですが元に戻ってしまいます。 ・第7戦 1976年12月2日 川崎市体育館 妻の嘘に気づいてしまった。追及すべきかどうか悩んでます。結婚2年目の夫婦子無しです。お互いフルタイムで仕事をしています。 ・第4戦 1976年7月17日 北九州市・三萩野体育館 バーン ガニア そこで質問なのですが、猪木がいつまでも根に持って許さ無かったレスラーって誰かいますか?力道山くらいで... 川田の全日や三沢批判についてうろ覚えですが、チャンピオンカーニバルで川田がハンセン・ウイリアムスのような感じで連戦になっていた時に、週プロの記事で、衝撃だったのは試合後に「誰かを持ち上げなくてはならない時に・・・」と言った発言をしたと書かれていたのを覚えています。。 坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年 2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー。 柔道家。 福岡県 久留米市出身。 世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口 … ダンジョンの中でしかできないんでしょうか?, パズドラのことについて質問させていただきます。現在開催されている鬼滅コラボキャラは、それぞれ何体ずつ確保すべきでしょうか?, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14228569909. テリー ファンク 天龍源一郎、藤波辰爾、長州力…と来て、この人を紹介しないワケにはいきません。 今回は、「ジャンボ鶴田」についてご紹介します! *文中敬称略 私の中で最初の「ジャンボ鶴田の記憶」は、1977年、田園コロシアムでのvsミル マスカラス戦(同年のプロレス大賞ベストバウト)あたりです。 フリッツ フォン エリック, 通算成績は鶴田側から見て4勝(ブラジル、ブッチャー、テーラー、エリック)2敗(テリー、レイス)4引き分け(ガニア、木村、ロビンソン、大木)と、立派なものでした。, 後の、80年代後半の鶴龍対決や、90年代の超世代軍と対峙する“怪物”ジャンボ鶴田しか知らない世代には信じられないと思いますが、私がプロレスを本気で観始めた時期(70年代後半~80年代前半)の鶴田はつまらない、ダメなレスラーでした。, 体格やポテンシャルは申し分なく、ランク的にはジャイアント馬場に次ぐNo.2。対戦相手もハーリー レイスやリック フレアー、ブルーザー ブロディらの名優相手…にも関わらず。, いつもニヤニヤしていて、顔も体もダラーっとしていて、やる気というか「迫力」が感じられない。, アメリカナイズされた悪い意味でのオーバーアクションが鼻について試合に緊迫感がなく、世界タイトルに挑戦しても「ずっと勝てない、勝ちたいという気迫も見えない、ベルトを巻けない善戦マン」。, 特に私が嫌悪したのは、鶴田のプロレスは「インチキ臭い」のです。一見さんが見たときに、鼻で笑われるようなお約束が多く(ロープに振ってのショルダースルーは必ず蹴り上げられ、対角線に振られたら鉄柱に肩から自爆し、ロープに股間を打って痙攣して悶絶…)、もちろんプロレスには攻守の切り替えが必要なのはわかりますが、それがあまりにもベタなのです。セオリー通り過ぎて、ファンの期待する「驚き」というものが皆無でした。, 当時、猪木のストロングスタイルというのは、そういうプロレスの悪しき慣例、お約束を否定し、緊張感と驚きがありまくりでした。, ですので、猪木信者に染まりかけの私からしたら「そんなんだからプロレスが八百長だとバカにされるのだ、もっと練習してマジメにやれ!」と思っていました。, “炎の飛龍” “革命戦士” “風雲昇り龍”…同世代の一流選手には、いずれも代名詞、キャッチフレーズがありますが、鶴田にはありません。“若大将”はほかに呼びようがなく、仕方なくそう呼ばれただけです。この辺りに当時のプロレスファン(マスコミも)の支持、というものが現れています。, さすがの鶴田もようやく危機感が芽生えたのか、やがて心機一転、黒パンツに変え、ルー テーズ直伝の「ヘソで投げる」バックドロップを習得して、遂に日本人初となるAWA世界タイトルを巻いた頃(1984年)に少し見直しましたが、それでも、やはり鶴田は鶴田でした。, そんな鶴田がようやく、本来の強さを発揮するのは80年代後半、天龍との鶴龍抗争から90年代の三沢、川田、小橋ら超世代軍との闘争でした。鶴田は圧倒的な体格と底なしのパワー、スタミナで、必死で戦う彼らの壁となり、“怪物”として立ちはだかります。ここらで私はようやく、「鶴田はすごい、強い!」と感じました。, が、その直後(1992年)から体調を崩し、早くして引退(1999年)→死去(2000年)となるのですから、なんとも言えないですね…。, 佐藤昭雄氏、天龍源一郎氏、そして日テレの原プロデューサーがそれぞれ語っています。共通して, 「鶴田は野心がなかった、プロモーターとして社長になる気もなかった、馬場さんがそれを許さなかったのもあるけど、本人もそういう気がなかった、だからスーパースターにはなれなかった」, という見方をしています(その裏に一部で有名な「サムソン轡田のクーデター計画」があったのでは?という話については、新たな逸話は出て来ません)。, 「俺のスタンスがちょっと落ち着いてきた時期に、馬場さんとスタン・ハンセンの試合をジャンボと並んで“馬場さん、どれだけボロボロにされるのかな?”って思いながら観ていたんだけど、馬場さんが勝ったんだよね。ジャンボと二人で尻を突き合ったのを憶えてるよ(苦笑)」, 「俺たちは“ジャイアント馬場という人が今までの名声を失うようなやられ方をするんじゃないか”という感じで観ていたから、“おいおい、勝っちゃったよ”っていうのが正直なところだったよ」, 「あのハンセンを巧く凌いで、試合を形成して勝った馬場さんを観た時に、ジャンボは“勝てないよ、源ちゃん!馬場さんには”と言ったんだよね。思わず漏らした言葉だったと思うよ」, この馬場vsハンセン戦はコチラで紹介しましたが、当時小6の私とまったく同じ感想を、鶴田や天龍が感じていた、というのはスゴイです。, 入門から鶴田を知る佐藤昭雄氏は「鶴田があまりに順調に二番手ポジションに着いてしまった事による弊害」と冷静に分析しています。器用でなんでもすぐにこなせたアマリロでの修行時代から、ライバル団体の猪木や長州を例に出して、なぜ鶴田は「オーバー(ブレイク)」しなかったのか、という話は説得力があります。, そしてもう一つ、「鶴田最強説」を唱える人が必ず持ち出す85年11月、大阪城での長州とのフルタイム戦。, 「ジャンボのレスリングは上手で、綺麗過ぎて…強過ぎて相手がいなかったんですよね。本当に強かった。ナチュラルな強さがあったから。長州と大阪城ホールで60分やったけど、長州はゼーゼー言っちゃって立てないんだもん。ジャンボは、その長州が立ってくるのを待ってるんだから。それだけの差があったんですよ」, 「長州が初めてドロップキックをやるのも見たし、ジャーマンをやったりとか…いい試合をやろうと必死にもがいている長州を見て、何か可哀相だったよ。シャカリキになって向かっていく長州が小物に見えちゃって、そういうのをジャンボが見せようとしているのかと思って、嫌になっちゃったね」, 「自分を大きく見せようとするジャンボに逆にちっぽけさを感じたよ。あの負けん気の強い長州が“もう一回”って言わなかったでしょ。それがすべてを物語っていると思うよ。ジャンボも“もう一回”と言わなかったってことは、お互いの中に何かがあったんですよ」, 長州が乗り込んで来た時に最前線で抗争を繰り広げた天龍からしたら、「後から出てきて」「自分だけ強そうにみせて」「観客無視の試合をする」鶴田に対して「俺はジャンボのそういうところが嫌いなんだよ」とイライラしている感じは、当時から感じていました。, 天龍は「プロとして」という論調で語りますが、本音は「長州をバカにして結果的に俺までバカにしやがって、ジャンボは何様だよ」なのではないかと思います。, 自分ばかりが強く見せてもダメですし、自分が弱く見えてもダメ。イーブンを意識してなぁなぁの試合はもっと最悪。プロレスはかくも難しいのです。, そしてもう一つ、鶴田と藤波、前田について。この本では前田の話は出てきませんが、佐藤昭雄氏のコメントで「藤波のサイズはアメリカ、全日ではキツイ」という話が出ます。これは先ほどの馬場ハンセン戦を観ると、素直に納得します。, 鶴田が善戦マン当時の全日では190越えのガイジンがザラで、後に長州がハンセン、ブロディに手を焼いた時代よりも、もっと過酷でした。鶴田は確かに運動能力も心肺能力も持久力もズバ抜けていましたが、最大の武器はその「サイズ」でした。190を超えたサイズで、飛んだり投げたり、俊敏な動きができるのがスゴイのです。(逆にいえば藤波、長州はあのサイズしかなかったから常に必死、なワケですし、猪木は190あってアレをやるから逆立ちしても鶴田は勝てないワケです), それを踏まえると、引退間際に話題になった鶴田の発言

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